Jogga

しあわせな文章

May 25, 2009 12:55 AM jammy  長い方の文

六本木へと向かう地下鉄。座った席の向かい側に、老夫婦が座っていた。
男性は鼠色の背広に翡翠をあしらったループタイ、女性は白のブラウスにブランド物のスカーフ、こげ茶色のパンツ。大きめの紙袋とボストンバッグが足元に置かれている。東京で催事があったのであろう。上京する機会など滅多にない老夫婦である。翡翠のループタイとブランド物のスカーフは精一杯の御洒落だ。お母さん、東京へ行くなら、私が韓国旅行で買ってきたあのスカーフ巻いていきなさいよ。とってもおしゃれよ。東京へ行くんですもの、そのくらいしないと。派手なんかじゃないわよこのくらいしないと、だって東京へ行くんですもの。お父さんだって、翡翠のタイがあったでしょう。あれをしていきなさいよ。いつものネクタイなんてしちゃだめよ、だめだめ、忘れないように今から準備しておきましょうね。というような娘とのやりとりが目に浮かぶ老夫婦が、目の前にいる。

夫はさきほどから肉厚の手に握り締めたぺんてるのサインペンを、大振りの帳面に走らせている。妻は穏やかな表情で車内を見回し、車窓に映る自分の姿を目にしてスカーフを触り、たまに夫の様子を伺う。お互いがお互いの時間を過ごしている。東京は人が多いな、そうですね、あとこの蒸し暑さはなんでしょうね、というような会話をするでもなく、ただそこに座って電車に身をゆだねる老夫婦が、目の前にいる。

「ちょっと違うな」と夫がつぶやく。帳面に書いた文章を黙読し、ふいに口から出た、そんな肌触りの「ちょっと違うな」。書いた文章を二重線で消しては書き、また消しては書き、そのたびに「...だから...で...うーん...が、...だぞ...うーん違うかぁ」とつぶやく。そんな夫の様子に気が付いた妻はとても優しい表情を見せながら、両手を動かす。流れるような美しい手話。夫は手話を交えつつも「うん、まあそんなところだな」と照れたような顔で言う。妻は再び手話で返す。「そんなんじゃないよ」と夫は答える。そんなやり取りをする老夫婦が、目の前にいる。

ぺんてるのサインペンにキャップを嵌めながら「出来た」と夫は言い、帳面を妻に渡す。ゆっくりとゆっくりと、手渡された帳面に書かれた文章を読む妻に、夫は無関心を装い、ぺんてるのサインペンを胸ポケットに入れたり内ポケットに入れ換えたりしている。
読み終えた妻は夫の顔をしっかりとみつめながら、笑顔で自分を指差し、続けて夫を指差し、その夫を指差している手の甲を、もう一方の手でゆっくりと円を描くようになでた。手話を知らない私が唯一知っている手話。自分を指差し、相手を指差し、相手を指差している手の甲をもう一方の手でゆっくりと円を描くようになでる―私は、あなたを、愛してます。
小さな声で「おう」と答えた夫の声が、私の耳朶に染みた。気付けば老夫婦は、もう目の前にいなかった。

帳面には何が書いてあったのか。きっとしあわせな文章だ。

welcome to happy set by jogga
ジョッガ代表がhappy setな調子で謳い、綴っています。

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