しあわせなノート
June 30, 2009 5:53 PM jammy 長い方の文
5月の図書館。私はひとり、駄作の代名詞と呼ばれる文学作品の活字を必死に追いかけていた。
息苦しくなり窓の外に目を向ける。雨である。鬱陶しくなり前を向く。少年である。雨はいつの間に降りだし、少年はいつの間に目の前に座ったのか。とにかく雨は降っているし、少年は私の前の席に座っている。
たくさんの人が読書を愉しむ大きな机には、参考書を積み上げヘッドホンステレオで何かを聴きながら問題集にえんぴつを走らせる青年、家庭雑誌を広げて「梅雨にぴったりのアッサリ献立」をメモする髪の長い女性、日経新聞の社説を食い入るように読む白髪の男性、猫が難事件を解決するストーリーの小説を一生懸命読む眼鏡の少女、そして私。少年。それぞれがそれぞれの読み物に夢中である。静かだ。
少年は小学校3年生か4年生か。どちらにしろ背は小さく、体も細身。顔は丸く愛嬌があり、普段の顔が笑っているような、そんな造作である。大きな目の上にある眉毛は薄い。髪は真っ黒で、ゆるい癖毛。前髪がくるりと跳ね上がっているのは雨の湿気のせいかもしれない。黒のボーダーシャツにデニムの裾を少しだけ織り上げたジーンズを履いたその少年は、被ってきた帽子を左側の空いている椅子に、紺色のスポーツバッグと一緒にきちんと置いている。私は興味を抱いた。
雨脚は強くなるでもなく、弱くなるでもなく、ただただ黙々と降る。そして眼前の少年は、静かに植物図鑑を眺めている。そんな少年を、駄作に夢中のふりをしながらそっと眺める。
スポーツバッグから色鉛筆と、表紙に鮮やかな朱色で格子の模様が描かれた薄いノートを取り出した少年は、真っ白なページに一瞬躊躇するかのように、赤い色鉛筆を手にしては戻し、黒い色鉛筆を手にしてはまた戻し、再び赤い色鉛筆を手にしてから、静かに花の模写を始めた。植物図鑑の「イザヨイバラ」と書かれたページををじっと見つめながら、赤色、白色、桃色の色鉛筆を器用に使い分け、どこか笑っているような、愛嬌のある表情でイザヨイバラを描く。
描き終わった少年は大きく息を吐き、続けて赤い色鉛筆で「イザヨイバラ」と書いた。その隣りには「(薔薇)」と書く。模写したイザヨイバラと同じく、丁寧な文字で。
背伸びをしながらノートを眺める少年が、本当に小さな声で「あ」とつぶやき、植物図鑑とノートを交互に見る。「薔薇」の文字を間違えたらしい。「(薔薇)」と書いたつもりがどこか違ったのだ。少年は「(薔薇)」と書いたつもりの文字を、赤い色鉛筆でぐるぐると塗りつぶし、その横に「(ばら)」とひらがなで書き直した。少しだけ悲しい顔をしていた。
イザヨイバラから始まり、少年は次々と花を模写し続けた。ポピー、アネモネ、ベゴニア、サルビア。1冊のノートすべてに花を描き終えた少年は、「薔薇」の文字を間違えた時に見せた悲しい顔が嘘のような笑顔でノートをゆっくりと1ページずつめくっていく。バラ、ポピー、アネモネ、ベゴニア、サルビア、スイトピー、カーネーション。
全てのページに花を、しかも赤い花ばかりを描き終えた少年は満足そうな笑顔で少し体を揺らしたり、背中をそり返してみたり、周りを見回してみたりしながら、スポーツバッグの中からマジックペンを取り出し、鮮やかな朱色で格子の模様が描かれた薄いノートの表紙に大きな文字で、
おかあさんへ
赤い花いっぱいずかん
勇次しゅっぱん社
と書いたのである。5月の日曜日、赤い花、おかあさん。少年は、母の日のプレゼントを作るためにひとり図書館へと足を運び、私の前に座って、赤い花いっぱいずかんを描いていたのだ。お小遣いもそんなにないし、お母さんに何が欲しいか聞いてもユウちゃんがそう言ってくれる気持ちでいいよって言うし、気持ちってなんだろう、お小遣いもそんなにないし、気持ちってなんだろう、と色々考えた末の最高のアイデアが赤い花いっぱいずかんであり、勇次しゅっぱん社である。
このノートは母親の手に渡り、ユウちゃんありがとうね、とっても上手に描けてるわ、ちょっとパパ見てよこれユウちゃんが、どれ、へー勇次すごい上手だな、赤い花ばっかりじゃないか、そりゃそうよパパだってこれはユウちゃんが母の日にってくれたんだもの、ちょっとユカリちゃんこれ見てごらん、お兄ちゃんが描いてくれたのよ、お兄ちゃんお花なんて描いて女の子みたいだよー、いいのよユカリちゃんこれはねお兄ちゃんがママを喜ばそうと思って一生懸命描いてくれた宝物なんだから、というやり取りがあり、さらに、あーお兄ちゃんここ間違えたんだー、あら本当ねこれは薔薇って漢字で書こうとしたんでしょうユウちゃんにはまだ難しいわよね、そりゃそうだよパパだって薔薇なんて書けないよ、という会話も生むであろうノートである。
そしてこのノートは母親によってこの先何十年も大切にされ、少年が成人し、恋をして、家庭を持った頃に、ねぇ亜由美さんこれ見てよ勇次が小学生の時に作った母の日のプレゼント、えー見たいですーへーすごい上手ですね、赤い花ばっかり描いてあるのよ、本当ですね、この赤いポピーなんてすごく上手ですよね、そうなのでも私が一番好きなのはこのぐちゃぐちゃってなってる、あぁここなんですかあぁ薔薇って書こうとして書けなかったんだ、そうなの漢字で薔薇って書こうとして間違えたの、あははは面白いですねー、でしょう、面白いでしょう、これもらった時、将来のお嫁さんに絶対見せようと思って大切にしてたのよ、という会話も生む幸せなノートである。
雨はいつの間にかあがっていた。少年が座っていた席には誰もいない。優しい午後である。
息苦しくなり窓の外に目を向ける。雨である。鬱陶しくなり前を向く。少年である。雨はいつの間に降りだし、少年はいつの間に目の前に座ったのか。とにかく雨は降っているし、少年は私の前の席に座っている。
たくさんの人が読書を愉しむ大きな机には、参考書を積み上げヘッドホンステレオで何かを聴きながら問題集にえんぴつを走らせる青年、家庭雑誌を広げて「梅雨にぴったりのアッサリ献立」をメモする髪の長い女性、日経新聞の社説を食い入るように読む白髪の男性、猫が難事件を解決するストーリーの小説を一生懸命読む眼鏡の少女、そして私。少年。それぞれがそれぞれの読み物に夢中である。静かだ。
少年は小学校3年生か4年生か。どちらにしろ背は小さく、体も細身。顔は丸く愛嬌があり、普段の顔が笑っているような、そんな造作である。大きな目の上にある眉毛は薄い。髪は真っ黒で、ゆるい癖毛。前髪がくるりと跳ね上がっているのは雨の湿気のせいかもしれない。黒のボーダーシャツにデニムの裾を少しだけ織り上げたジーンズを履いたその少年は、被ってきた帽子を左側の空いている椅子に、紺色のスポーツバッグと一緒にきちんと置いている。私は興味を抱いた。
雨脚は強くなるでもなく、弱くなるでもなく、ただただ黙々と降る。そして眼前の少年は、静かに植物図鑑を眺めている。そんな少年を、駄作に夢中のふりをしながらそっと眺める。
スポーツバッグから色鉛筆と、表紙に鮮やかな朱色で格子の模様が描かれた薄いノートを取り出した少年は、真っ白なページに一瞬躊躇するかのように、赤い色鉛筆を手にしては戻し、黒い色鉛筆を手にしてはまた戻し、再び赤い色鉛筆を手にしてから、静かに花の模写を始めた。植物図鑑の「イザヨイバラ」と書かれたページををじっと見つめながら、赤色、白色、桃色の色鉛筆を器用に使い分け、どこか笑っているような、愛嬌のある表情でイザヨイバラを描く。
描き終わった少年は大きく息を吐き、続けて赤い色鉛筆で「イザヨイバラ」と書いた。その隣りには「(薔薇)」と書く。模写したイザヨイバラと同じく、丁寧な文字で。
背伸びをしながらノートを眺める少年が、本当に小さな声で「あ」とつぶやき、植物図鑑とノートを交互に見る。「薔薇」の文字を間違えたらしい。「(薔薇)」と書いたつもりがどこか違ったのだ。少年は「(薔薇)」と書いたつもりの文字を、赤い色鉛筆でぐるぐると塗りつぶし、その横に「(ばら)」とひらがなで書き直した。少しだけ悲しい顔をしていた。
イザヨイバラから始まり、少年は次々と花を模写し続けた。ポピー、アネモネ、ベゴニア、サルビア。1冊のノートすべてに花を描き終えた少年は、「薔薇」の文字を間違えた時に見せた悲しい顔が嘘のような笑顔でノートをゆっくりと1ページずつめくっていく。バラ、ポピー、アネモネ、ベゴニア、サルビア、スイトピー、カーネーション。
全てのページに花を、しかも赤い花ばかりを描き終えた少年は満足そうな笑顔で少し体を揺らしたり、背中をそり返してみたり、周りを見回してみたりしながら、スポーツバッグの中からマジックペンを取り出し、鮮やかな朱色で格子の模様が描かれた薄いノートの表紙に大きな文字で、
おかあさんへ
赤い花いっぱいずかん
勇次しゅっぱん社
と書いたのである。5月の日曜日、赤い花、おかあさん。少年は、母の日のプレゼントを作るためにひとり図書館へと足を運び、私の前に座って、赤い花いっぱいずかんを描いていたのだ。お小遣いもそんなにないし、お母さんに何が欲しいか聞いてもユウちゃんがそう言ってくれる気持ちでいいよって言うし、気持ちってなんだろう、お小遣いもそんなにないし、気持ちってなんだろう、と色々考えた末の最高のアイデアが赤い花いっぱいずかんであり、勇次しゅっぱん社である。
このノートは母親の手に渡り、ユウちゃんありがとうね、とっても上手に描けてるわ、ちょっとパパ見てよこれユウちゃんが、どれ、へー勇次すごい上手だな、赤い花ばっかりじゃないか、そりゃそうよパパだってこれはユウちゃんが母の日にってくれたんだもの、ちょっとユカリちゃんこれ見てごらん、お兄ちゃんが描いてくれたのよ、お兄ちゃんお花なんて描いて女の子みたいだよー、いいのよユカリちゃんこれはねお兄ちゃんがママを喜ばそうと思って一生懸命描いてくれた宝物なんだから、というやり取りがあり、さらに、あーお兄ちゃんここ間違えたんだー、あら本当ねこれは薔薇って漢字で書こうとしたんでしょうユウちゃんにはまだ難しいわよね、そりゃそうだよパパだって薔薇なんて書けないよ、という会話も生むであろうノートである。
そしてこのノートは母親によってこの先何十年も大切にされ、少年が成人し、恋をして、家庭を持った頃に、ねぇ亜由美さんこれ見てよ勇次が小学生の時に作った母の日のプレゼント、えー見たいですーへーすごい上手ですね、赤い花ばっかり描いてあるのよ、本当ですね、この赤いポピーなんてすごく上手ですよね、そうなのでも私が一番好きなのはこのぐちゃぐちゃってなってる、あぁここなんですかあぁ薔薇って書こうとして書けなかったんだ、そうなの漢字で薔薇って書こうとして間違えたの、あははは面白いですねー、でしょう、面白いでしょう、これもらった時、将来のお嫁さんに絶対見せようと思って大切にしてたのよ、という会話も生む幸せなノートである。
雨はいつの間にかあがっていた。少年が座っていた席には誰もいない。優しい午後である。


